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本、映画をつづる日記
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壮大な兄弟喧嘩だったなぁと。
ディズニーアニメなのでターゲット年齢層が広く、シンプルで分かりやすい物語だったけども、それが最終的に王道の恋愛ではなく姉妹愛に辿り着いたところが新しい。
閉じ込められていた2人が初めて外に出る事が出来た時の感情の対比が顕著で印象的。
というよりエルサの存在の異端さかな。
ずっと暗いものを抱えてるその異端な主人公に親近感を抱いた。
人がいなくなって、魔法を誰かにバレる不安も傷付ける心配もなくなって、今までにない自由な気持ちになれたけど、結局魔法は誰かを傷付けていて制御する方法も分からない苦悩とか。
なんかもうエルサが圧倒的に物語の中で不遇すぎる…と思いながら見てた
魔法の存在に振り回されすぎだもの。
アナがエルサに、オープンマインドを気軽に勧めたのも印象に残ってる。
人と関わってこなかった故の想像力のなさ、幼さ、そして楽観さを感じさせた。
それでもやはり閉じた世界に解決方法は無く、開けた世界が制御方法であったわけだけど。
エルサは愛の場所を、アナは愛の見極め方を学んだ話だったと思いました。
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怒ると怖いけど威厳があり家族を守る父親、母性あふれ父を支える母親、やんちゃな息子で形成されている鈴木家が、あの時代の典型的かつ理想的な家族の形。
原作は一平が主人公だけど、映画のスタッフロールでは茶川が主演扱い。
原作とは少し違う視点で伝えたかったのかなと推測。

茶川は、捨てられた子供を引き取ることになった時その子供を忌み嫌うし態度にも出すわ、甲斐性ないわ、その癖プライドはあるわ、子供の作品をあっさり盗作するわで頼りないしクズの中のクズなんだけども。
そのクズに父性が目覚めていく過程がとても心打たれるのだ…
そして淳之介の一途な心にも涙が出てくるのだ…
お金持ちが現れて、貧乏だからと身を引くってパターンはどっかで見たことあるなぁという王道ではあるんだけど、その王道を山崎貴はどうしてこうも涙を誘う展開に仕上げてしまうのかと驚くばかり。
それとも現代人はこういうものにこそ飢えてるのかもしれない。
ギャグシーンもきちんと昭和の漫画な雰囲気を出しつつ、現代でも受け入れられるようなもので、全体的に明るい空気を保たせている。
先生の家族の夢は、現実の映像なんだと思わせておいて過去の映像だった、実は家族は亡くなっていたという後出しがズルい。
夢の映像と実際に1人で一人きりの家に帰った映像を比較させるのもズルい。
喪失感ってこうやって出すんだなと演出方法を学ばされた。
六に薬師丸ひろ子が『子供の顔を見たくない親なんていないのよ』って言ってて、これは淳之介の家庭環境の事もなんらかの意味で表していると思うんだけど、その意図が分からなくて悩んだ。
捨てた母親はもう『親』ではなくて、茶川が『親』になったという定義付けなのか。
それとも彼女もほんとは会いたがっているという希望なのか。
監督:山崎貴
清子:風吹ジュン
姉:吹石一恵
祖父:夏八木勲
大石:染谷(そめたに)翔太
井崎:橋爪功(青年時代:濱田岳)

『戦争の痛みを引き継ぐ』というとてもシンプルなテーマをここまでのものにしたのは、構成と俳優の迫力、演技がとても大きいと思う。
原作が「告白」を超えた売上部数を記録してることから、そもそもの話自体が良かった。
そして何より、脚本•監督が山崎貴だったという…
このタッグで上手くいかないハズがなかった…

開始一時間の訓練生のところで泣き、最後の方の特攻時の四人の動きを細切れに流したところで泣き、ラストの岡田君特攻時の格好良さにまた泣いた。

観ていて恐ろしかったのがその当時の軍人の価値観。
命を捨て、国の命令に従うことが正しいという思考に皆ああも染まっているものかとゾッとした。
死にたくないという本能の声を上げただけでバッシング。
集団で思考が染められて、思考の自由が奪われるという危険性を学ぶ。

人を殺して歓声が挙がるっていうのもリアルに見ると怖かった。
アニメとかばっかりじゃダメだなとこっそり反省…笑
和に習う日本人であり、かつ周りがそんな価値観にまみれた軍人ばかりであったにも関わらず、命の重さに気付いて主張し続けた宮部の強さは本当に希少なものだと感じる。
そんな彼も結局仲間•教え子の相次ぐ死に『自分だけ逃げている』という考えが湧き出し、価値観を揺るがされ…
特攻を志願することになったけれども。
生きることに固執したからこそ意味のある死を見出せたわけで。
恐らく特攻を成功させただろうというラストは盛り上げる為にとった結末であり、最も重要なのは、彼が生を繋いだということ。
永遠の0というタイトルからも読み取れるように…
繋がれた生が妻を守り子供を守り、孫を生み、その孫が彼らの経験を掘り起こして語り継ぐという
そんな『繋がり』に心打たれた映画でした。
監督:吉田大八〈パーマネント野ばら、腑抜けども悲しみの愛を見せろ〉
受賞:アカデミー最優秀監督賞•最優秀作品賞

桐島がいなくなることによって起きた、高校生の人間関係の変化を描いた作品。
解説を見てしまったので感じたことを中心に。
作品全体としては、部活動を基軸としながら、学校という狭い世界を生きてる子供たち、という印象を受けた。
誰もが自分以外の心情を理解できてなくて、しようとすらしていなかった。
そんな余裕もないのかもしれない
桐島がいなくなったことに関しても皆自分の苛立ちを見せるばかりで、心配という気持ちは垣間見えず…
その中でも橋本愛が演ずるかすみが特にそれを顕著に現してた。

波風を立てることを避け、落ち込んでいる友達への言葉もふわっとしてる。
人間関係に一番気を遣っているんだろうけど、表面上の話なので『よくわからない』という逃げの発言が多い。
一番苛立つキャラだったが、私学生時代これが一番近かったなぁということで同族嫌悪でした。
最初から最後まで一度も登場することのなかった桐島は、彼らにとっての『神様』を表している。
という一説が哲学的で面白い考察だなーと。

つまりは皆依存してる。
恋する相手に、友達関係に、そして桐島に。
その中で神木君も恋する相手がいたわけだけど、同時に映画という熱中できるものもあった。
映画のおかけでその人とつながる瞬間もあった。
ひろき君に恋していた女の子も、吹奏楽があった。それを使って健気なアピールも続けていた。
そして二人とも、依存の対象を失ったけど、熱中できるもので昇華させた。
ここが、最後屋上に集まってきた人達との違いなのかなーと。
ラスト、吹奏楽をバックミュージックに、彼らをキャストにして撮った映画は混沌としてて、マッチしていた。
対比を表しながらも同調した芸術を見せたということは、昇華出来ていない人達への可能性 を示しているのかもしれない。
主人公エドワードノートンとアンソニーホプキンスの関係は、一作目の羊達の沈黙のように助言者とそれに従い行動するもの、という関係に思われた。
しかし、エドワードがアンソニーの犯行に感づき、負傷しながらも逮捕に繋げた。
その事がアンソニーのプライドを傷付け、助言を与える立場にいながらも、密かにエドワードを打ち負かそうと対立的であったところが印象的。
1.2で絶対的な知性の高さを見せていたが、アンソニーを上回る人物が現れた事で 彼の新しい一面が見えた。
表面では犯人をつきとめる為の助言を行いながら、影でその犯人と思わしきものにエドワードの殺害をアドバイスするという…
その演技にぞっとしつつも、負けん気の強さに人間らしさを見てほっとする。
神になると言う望みを持ち、悪魔のタトゥーを背中に入れ、二面性を持つ犯人には中2性を感じた…
アンソニーとエドワードの関係を主としてるため、所詮サブに過ぎないが、キャラは充分立っていたように思える。


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